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山梨といえば武田信玄

武田 信玄は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名である事は周知の事実ですよね。
山梨県に住んでいる方で信玄を知らない人がいたら、それはもぐりです。

それでは信玄についての豆知識を知りましょう!本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られました。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻するのはご存知かもしれません。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した事はあまりにも有名ですよね。晩年には上洛の途上、三河で病を発し志半ばで信濃で病没しました。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人であると共に私の中のヒーローでもあるのです。

もちろん私は信玄を見た事もなければ、信玄オタクでもありません。ただ数百年の時を越えても信玄の個性が伝わってくるのです。やはり歴史に名を残す人物はすごいです。

では次に信玄の人物像について少し説明をしたいと思います。

仏教の信仰は篤かったと言われているが、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいるなど 仏教に背く行為がみられたようです。

このことに関して信憑性は今ひとつである『甲陽軍鑑』(元々信玄本人が著したのではないのと、成立が江戸初期という事で、徳川幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述では、当時信玄が熱心に勉強していた『碧巌録』の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、導師岐秀元伯に「あなたはこれ以上する必要はありません。武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか」と言われ、信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。ものすごいあとづけされている事は一目瞭然ですが、英雄が英雄である為には人物が誇張される事は仕方がない事であると思います。
当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧侶は繋がりが深く、多くの武士が出家しているが、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていないのが普通でした。当時の有力寺社には僧兵、神人と呼ばれる武装した下級の僧侶、神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落し、俗世に関わり武装闘争をも辞さなかったのは知ってますよね。信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等の宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされます。『甲陽軍鑑』の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られます。また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言えるでしょう。このように、形骸化したとはいえ本来あってはならない僧侶の婚姻を推し進めたり、信者を使って一揆を誘発したりしていたことから少なくとも純粋な信徒ではなかったように思われます。

ただ信玄は戦国武将なので別に純粋な信徒たるべき必要はまったくないと思います。

最後に信玄の名言を紹介します。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」

「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」

「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」

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